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金閣寺
京都市の西北端、正しくは京都市北区金閣寺町に、この寺はある。
西に衣笠山、背後に左大文字山をひかえた景勝の地で、京都市の北部に連なるなだらか山並みは、北山(キタヤマ)の名で一般に親しまれているが、この北山につながる金閣寺の周辺一帯だけを特に北山(ホクサン)と呼ぶことがある・・・
世界遺産にならないのは、残念ながら建て直しているからなのです。
源光庵
源光庵は現在、曹洞宗の寺院である。
洛北の鷹峰の地にあり、北東には常照寺、南西には光悦寺がある。
本堂は元禄7年に創建されたものとされ、本堂内には「悟りの窓」という円窓と「迷いの窓」という角窓があり、そこから眺める新緑や紅葉の風景は有名。
「悟りの窓」は円型に「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現している。
「迷いの窓」は角型に「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表しているとされる。
本堂裏には、北山を借景とした枯山水庭園もある。
源光庵 悟りの窓 丸い窓を見て座禅する真実の窓?
源光庵 迷いの窓 四角い窓を見て座禅する四苦八苦の窓?
禅苑の名刹 大雲山 龍安寺
文化遺産の一つである石庭には、大きな四つの謎が秘められているという。
名探偵になったつもりで、謎解きをしながら石庭を眺めてみては?
刻印の謎 作者は誰か?
作庭の謎 作者の意図は?
遠近の謎 排水を考慮、遠近法を利用した高度な設計手法を使い鑑賞者の錯覚を利用したトリックは、誰が?
土掘の謎 名画のフレームのような外堀と高度な工法が可能にした堅牢は誰が?
二条城だ。
光悦寺
本阿弥光悦が徳川家康より拝領した地である。
参道の紅葉のトンネルは素晴らしい。
日蓮宗 寂光山 常照寺
常照寺は、日乾上人に帰依した吉野太夫ゆかりの寺として知られ、太夫の墓や太夫が寄進した「吉野の赤門」と呼ばれる山門、吉野窓(茶室)、吉野桜も有名。
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赤い山門は「吉野門」とも呼ばれているが、名妓2代目吉野太夫の寄進によって建てられたのであった。
太夫には教養と情け、そして法華宗への深い信仰があった。
寛永5年(1628)、日乾上人に帰依し法華経を深く信仰していた吉野太夫(23歳の時)が、私財を投じて寄進したもの。
太夫は、都の六条三筋町(後の島原)に在った廓の名妓で、遊女としての最上位にあたる太夫。
教養が高く、和歌、連歌、俳句、書、茶道、華道、音曲、囲碁、双六など諸芸に優れていただけでなく、その美貌は遠く唐(中国)にまで伝わっていたという。
当時の上流社会の社交場の花であった太夫は、京の豪商で文化人でもあった灰屋(佐野)紹益に見初められることとなった。
紹益は、公卿と張り合い、寛永8年(1631)千三百両で吉野太夫を身請している。吉野26歳の時であったという。
このとき紹益は親の許しが得られず駆け落ちした話は有名。
この父が、雨にあって傘を借りに入った家で、世話をしてくれた女の茶立てやその他の振る舞いが礼にかなっているのに感服、その女が吉野であることが分って、勘当をゆるしたという。
二人は東山の音羽川のほとりに住まいを構え幸福な家庭を営んだ。
寛永20年(1643)8月25日、吉野は38歳の若さで没し、甘い生活はわずか12年間と短く、紹益は恋慕のあまり吉野の荼毘の骨灰を呑みほし、
「都をば花なき里となしにけり吉野の死出の山にうつして」
と詠んだ。
吉野は、本来なら夫の菩提寺である立本寺(りゅうほんじ)に葬られるはずだが、遺言と日乾上人に帰依し生前には山門を寄進した縁もあり、常照寺に葬られた。

少し高台に茶室の「聚楽亭」と吉野太夫が好んだという大丸窓(通称吉野窓)のある「遺芳庵」が見られる。
太夫が愛した窓(吉野窓)と呼ばれている。

常照寺でみかけた飼い猫。
あまりの人懐っこさに、思わず一枚・・・
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